日本版「文化大革命」只今進行中-5

さて問題は、長い年月を掛けて深く静かに潜行し、遂に明白な形で現れてきた日本版の「文化大革命」を如何にして沮止し、その首謀者達を駆除するかである。

彼等の基本戦略は単純である。あらゆる分野、あらゆる階層に、「清廉潔白なる素人」を送り込むことにあった。何も知らない、何もしようとしないから、永遠に「清廉」で「潔白」でいられる事勿れ主義、先送り主義、無責任の塊を「新時代の寵児」とばかりに持て囃し、主要な地位に就くまでサポートしてきた。

我が国のマスコミは、このことだけに熱心であり、他のことは全て、こうした任務を完遂する為の「目眩まし」「アリバイ作り」であった。

一人の人間が、両面を持つこともあれば、役割分担が為されていることもある。「善」なる役割を与えられた連中は、即ち「アリバイ作り専任」の連中は、自らがそうした役回りであることを自覚していない。

自覚していないが故に、真剣になってマスコミの偏向を否定する。自分の仕事を正当化し、「周囲は真面目な者ばかりだ」と熱弁を振るう。それは確かに「事実」であろう。そのように客観的に周囲の状況を見れない人だからこそ、「その役回りを与えられてきた」のである。

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素人礼賛のマスコミの最大の弱点は何か。
それは「彼等自身が素人であること」である。

彼等は実は何の専門家でもない。

カメラの前で作り笑顔で原稿を読む者から、その原稿を書く者、その下調べをする者、取材をする者、テロップを打ち込む者、編集をする者、その他大勢を含めて、ここに「真のプロ」は存在しない。全ての要素が集まって、ようやく一つの番組を作り得るレベルにはあるが、彼等は自分自身が話している内容も、その背景も全く理解していない。

では「真のプロ」とは何か。それは自らの意に沿わぬことはしない人間である。職を賭けて抵抗する人間である。それでも叶わぬ時は、辞職して自らの証を立てる人間である。こう書けば、マスコミには絶対に居ない人種であることが御理解頂けよう。

確かに理解していなくても出来る報道はある。しかし、絶対に容認出来ないことは、それを彼等は「理解していると強弁すること」である。そして、多くの視聴者がこれに騙され、「一応の知性のある人物である」と誤解することである。疑問があれば、あの「襟立て女」を見よ。

作られたタレントであり、作られた議員であり、作られた大臣であって、その中身は全くの空っぽである。しかし、マスコミの多年の協力により、少しは頭があるかの如くに誤解している有権者が多数居るのである。その結果の大量得票である。

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素人礼賛をするのが、各種業界きっての専門家なら、まだ話は分かる。「素人の日本代表」の如きマスコミが行う素人礼賛とは、「単なる自画自賛」に過ぎない。自分達が、その才能の欠如、努力の欠如、志の欠如により、一向に能力が高まらないことを肯定する為にも、彼等は熱心に素人を持ち上げる。そして、その一方で自分達の専門性を語り、誰もが届かない高みに居るかの如くに偽装する。これは成り済まし外国人を偽装して、主要な地位を与え、組織を乗っ取る、所謂「潜入工作」と全く同じ手口である。

「本物」がテレビに出て「人生の貴重な時間」を浪費するはずがない。仮に、そんなことが起こるとすれば、予算が附かない組織の代表が、その責任感の表れとして、自らの時間を捧げて広報活動を行っているか、余命幾ばくもない名人・職人が、これも自らの後継者育成の為に、その履歴を語っているかのどちらかであって、「本物」がにやけ顔でコメンテータなどやっているはずがないのである。

従って、彼等の主張は素人の主張に過ぎず、全く聞くに値しない戯れ事であり、それを「専門家」と偽って登場させるマスコミは詐欺の片棒を担ぎ、あるいは主犯となって、素直な国民を騙しているのである。その結果が、ここまで述べてきた日本版の「文化大革命」、即ち、「素人礼賛による専門家の排除」「素人政治家の跋扈による政権の簒奪」から、「国家主権の売り渡し」に道を通じている。

蟻の一穴が、壮大な売国活動に通じている。マスコミに頭の中を撹拌されて、善悪、真偽の区別が着かなくなったところで、遂に「政権交代」という名の巨大な詐欺事件が起こったのである。


現状のマスコミを解体し、「真の専門家」を我々の手に取り戻し、重要な意志決定が必要なポストには重要な人物が、知的な判断が必要なポストには知的な人物が配されるようにしなければ、我々の日本は取り戻せない。

しかし、現状を逆転するのは、そんなに難しい話ではない。

結論は何時も同じだ。それは単にテレビのスイッチを切ればよい。新聞の購読を止めればよい。巨大な騒音の中で何時間も浪費し、景品と金を交換するような愚劣な遊びから、いや「機械の奴隷になって遊ばれている」ことから卒業すればいい。気付いた者から粛々と、現状のマスコミに対して「NO!」の姿勢を取ることだけで実現されていく、極めて簡単なことなのだ。

若者が真のプロを尊敬し、真のプロになることを目指し、偽物を拒否し、偽物に甘んじる者を許さなければ、十年後には日本は「本物の国」に戻る。問題は今日、このことを決意する人間がどれほど居るか、唯それだけなのである。

日本版「文化大革命」只今進行中-4

さて、日本版の文革を推進する「紅衛兵」達が大好きな「捨て台詞」がもう一つある。それは「信者」である。相手をこう揶揄することで、簡単に勝利を手に入れることが出来る、魔法の言葉である。これを国籍定かならぬ者から、自称大学教授まで真面目な顔で書いているから、誠に呆れかえるばかりである。

これに関して最近「面白い法則」を発見したので、記しておく。以後、論じる「信者」は真面目な信仰に関わるものではなく、あくまでもカギ括弧附きのものであることを断っておく。

例えば、嘲笑の対象として「麻生信者」「西田信者」「自民党信者」という書込は散見されるが、「鳩山信者」も「野田信者」も、そして「民主党信者」も聞いたことがない。もっとも教祖然と振る舞っている「友愛教」の元凶ですら信者を獲得しかねている。どうやら信者の風は「左から右へと吹いて、その逆は無い」ように見える。

ごく最近では、活躍中の京大コンビに対する侮蔑の言葉として、「中野信者」や「藤井信者」が使われているようであるが、「古賀信者」も「岸信者」も聞いたことがない。事の正否は置くとして、「一貫した主張」に同調すると信者扱いを受けるように見える。

要するに、「右側に居る人間がまともな主張をする」、これに賛意を示した者は、たちまち信者というレッテルを貼られる、そんな図式が見えてくる。だとすると、やはりこれは左からの風であろう。「紅衛兵」たる連中は、恐らく「○○信者」と書いたカードを、相手の首に掛けて石でも投げたくて仕方がないのであろう。嘲笑の裏に、それと相反する凶暴性が透けて見える。

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これもまた「日本版特有の現象」ではないだろうか。「信者」と「どっちもどっち」という二つの台詞は、実は同じものなのである。

マスコミに登場する自称知識人や、学校の教師、社会、それら全てが「信者」というものを否定している、冷静になることを求めている。常に一歩退いて、「大局的な立場」から物事を見ることを勧めている。

これも一つの病ではないか。
何故、「信者」ではいけないのか。
何故、「一歩退いて、醒めて見なければならない」のか。

誰も教えてはくれないのである。それは「疑う必要のない真理だ」と全ての人が刷り込まれているのである。即ち、「信者を否定すること」を、「無条件に信じるように教育されている」のである。これを「信者信者」と呼ぼうか。「一つの意見に縛られてはいけない」という一つの意見に縛れれているのではないか。

学者であるはずの大学教授が、「信者」を否定する。では一体、「信者」と呼ばれる程の熱狂ぶりで、一途に対象に取り組まなくて、どうやってそれ極めたというのか。あれも正しい、これも正しいという「価値相対主義」は学問的に最も否定されるべき態度ではないのか。決めるべきを決めず、価値判断から逃げて、いたずらに評価を保留することは、既に学問ではなく、それは学者の取るべき態度ではないはずだ。

要するに、意見を求められて、「どっちもどっち」「それぞれに良い点、悪い点があります」などという寝言を言う人間は、学者の名に値しないということである。学者は自分の専門分野において、その職を賭けて「断言する」ものである。それが社会が学者に求めている「位置」である。

学問でも芸術でもスポーツでも、この線を越えたら正気には戻れない、というギリギリの線まで踏み込んで初めて会得出来るものであろう。「信者」になることを恐れて、為せることなど何も無い。正気に戻るための髪の毛一本さえ残しておけばよい。「一心不乱に信じる」ことで、ようやく相手の正否、善悪が見えてくるものである。

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「政党ではなく人で選べ」というコメンテータも居る。「人で選べる程、その人を知る為には何が必要か」を言わなければ、こんなバカげた指摘はない。そこまで人物に寄り添って決断を下すのならば、それは友人、知人の枠を越えて、運命共同体的な繋がりを候補者と持たなければ、到底「人では選べない」はずだ。それは「信者」になることと同義である。少なくとも、一時的には「信者」でなければ、何も見えない。

友情でも、恋愛感情でも同じことだ。
盲目的な状況を経なければ、相手の深い部分は決して分からない。

それを「信者」と揶揄することで否定している。
揶揄されることを恐れて、深入りを避けている。
だから何も見えてこないのだ。
残すのは髪の毛一本だけでいいのだ。

それを残さず、最終的な判定能力を失った人を「洗脳状態」にあるという。「信者レベル」なら充分引き返すことが出来るはずである。

一番簡単な例を引いておこう。
何故、政権交代が起こったか。

それは「民主党信者」が居なかったからだ。民主党の主義主張にドップリと浸かって、共に死ぬ気で支持した人間が居なかったからこそ、彼等は易々と政権を手に入れたのである。もし本気で支援する者が多数居れば、本気で「脱会」する者も多数出たであろう。彼等の欺瞞を許さないと内部告発する者が次々と現れたであろう。

そんな者は居なかった。有権者も同様である。
だから今なお、民主党に支持率が存在するのである。
本気で支持しなければ、本気で裏切られることもない。
「どっちもどっち」と言い続けていれば、自分の心は傷付かない。

我々日本国民は、大変な誤解をしているのである。我々は、「信者」となって堂々と間違いを犯し、堂々と引き返してくればいい。これは軽薄なる右顧左眄とは全く異なる、真剣なものである。その真剣さの核になるのは、相手の主張が如何に首尾一貫しているか、責任を取り得る形式になっているか。論理的な矛盾は無いか、数値的なデータとしての裏付けがあるか。相手を選ばす公開の場で議論しているか、そうしたところをチェックすればいいのである。

「信者になれば戻れない」という弱い気持ちが、それを利用しようとする連中に、既に弄ばれているのである。「信者になってはいけません、何事も一歩退いて、冷静に、私の言うことだけを聞いていれば間違いない」と言って、信者を否定する人間は、自らの「信者否定の信仰」に引き摺り込もうとしているのである。

なお、本ブログでは「信者を求めてはおりません」。以上の雑談は、雑談としてお読み頂きたい。同じ意見を百人から聞いてもそれは一人分でしかない。出来る限り異なる意見を、腹に入れて、ゆっくりと消化すればいいのである。世間に広く流布しているものと「異なる意見の一つ」として、「一つの意見に縛られない為の一つの意見」として、お読み頂ければ幸いである。

日本版「文化大革命」只今進行中-3

さて、日本版の「文化大革命」とは何か、お分かり頂けたことと思う。マスコミを中心にした素人礼賛の誘導報道。そして、簡単に乗せられ、「紅衛兵」さながらに、それを後押ししてきた我々国民。その手には毛沢東語録ではなく、テレビのリモコンが握られていた。合言葉は「どっちもどっち」、そして「分かりやすい」である。

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自民党はダメだ、とマスコミが報じれば同じことを呟き。
民主党は若くて清潔だ、とマスコミが報じれば大きく頷く。

そして、民主党の決定的な能力の欠如が明らかになった今は、「民主党もダメだが、自民党はもっとダメだった」に変わり、その結果、「どっちもどっち」だと嘆き始めた。二者択一しか許されていない局面で、それを否定し「どっちもどっち」と答えるのは、単なる逃避でしかない。しかも、自分を両者より上において嘆いて見せる、最悪の現実逃避であり、傲慢の極みである。

これをマスコミは「国民の声だ」として採り上げる。最低最悪の現実逃避が、マスコミにより「賢明な有権者」の遣り場のない憤りとして、最大限に持ち上げられる。これでポピュリズムの循環は完成し、文革は継続されるのである。

「民主党の固有の問題点」を論じているにも関わらず、「自民党と比較して云々」と始めるところで、その人物の知能程度が推し量れる。心ある多くの人々が批判しているのは、恐るべき「民主党の独自性」なのである。戦後半世紀に渡る自民党外交を、僅か半年で完全に破壊した、その独自性なのである。この点において、自民党は当然のこと、民主党と比較できるような政党は、日本の歴史上存在しないのである。

にも関わらず「どっちもどっち」と言っては、悦に入っている。その得意満面も、マスコミに作られた虚像だと早く気付いて頂きたいものである。何しろ、自民党を俎上に挙げて、批判三昧に興じている元凶が当の民主党なのだから、その低劣やまさに極限であることが分かろうというものである。

そして、次なる素人捜しが始まる。「みんなの党」はどうだろうか。みんなの党もダメだった。民主もダメ、「みんな」もダメ。そして、「どっちもどっち」が再開される。前回と異なるのは、「民主もダメだが、みんなもダメ、でも自民党だけには戻させない」という妙なオマケが付くことである。そしてそして、維新の登場と相成る。もうすぐこれも飽きられる。ダメの三連発が叫ばれて、「それでも自民だけは許せない」と追加されるのであろう。

今や「マスコミの主張の反対」が真であり、善であるのだから、答は明白である。この偏向報道、誘導報道は、「自民党だけがまともな政党である」ことの実に見事な証拠ではないのか。

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原発稼働に賛成すると、トンデモナイ所から矢が飛んでくる。「順次廃止、現状では恐る恐るでも一部の稼働はやむなし」としても同様である。即時全面廃止以外に、選択が認められていないのである。そして、「即時全面廃止論」以外の話を少しでも始めると、「電力会社の回し者」「権力の犬」「国民の敵」と罵られる。

電気が止まれば、確実に死人が出る。それは昨年の関東地区の計画停電で既に立証されている。亡くなる方の理由は様々である。医療機器の停止、信号灯が消えたことによる交通事故、その他、予想も出来ないところに波紋が拡がるのである。この点を指摘しただけでも、やはり御大層な反撃を喰らう。そして嘲笑である。

ここで登場するのが「分かりやすい」という定番の「締め」である。
嘲笑である。末尾に(笑)と付ければ勝ち、という幼稚なゲームである。

あいつは親が東電勤めだから原発推進派だ、実に「分かりやすい」。
あの議員は東電から献金を受けている、何と「分かりやすい」。
土木系の教授は公共工事を訴える、「分かりやすい(笑)」である。

全てを利権に結び付ける「壮大な陰謀史観」である。

こうして、末尾にこの決め台詞を書くことで、多数の人を思考停止に追い込むのである。ならば、医者の居ない地域があるから、病院を作って欲しいと訴えれば、それは「医師会の回し者」なのか、「病院経営者の差し金」なのか。治安が悪いから交番を増やして欲しいといえば、「警察とグル」なのか。

何故「電気が無いと困る」と言っただけで、電力会社の回し者にされるのか。医者が居ないと困る、警官が居ないと困る、道路が無いと陸の孤島になる。こうした訴えをした人間は、全て「大いなる利権集団」の回し者にされるのだ。

何ともはや「捻くれた話」「分かりにくい話(怒)」ではないか。

リモコン片手の「紅衛兵」と、自国の原発廃止には熱心だが、隣国の原発増設は手放しで褒めるような連中が、見事にブレンドされて、この夏には多くの悲劇が生じるだろう。まさに名も無き、罪無き人々が、人の無理解、人の軽薄、そして人の悪意によって、命の危険に曝されるのである。

確信犯は捨てておこう。問題は年老いた「紅衛兵」達である。せめてリモコンをおき、新聞を止めては如何か。得意気に「どっちもどっち」と言い放つその顔は、まさに民主党議員に瓜二つである。まだテレビを見てるの?……何て分かりやすい!

日本版「文化大革命」只今進行中-2

毛沢東の指導した「下放」とは、知識人を農村部へ追放して、中央に「論理的思考」の出来る者が居なくなるようにすることであった。そして、全ての価値の最上位に農民が位置するかの如く偽って彼等を煽り、農村部で知識人に「政治教育のみ」を施すことであった。

それはまさに追放であり、奴隷化であった。専門家の否定、あらゆる専門職の否定であった。十億を超える人間の中で、「大脳を有する」のは唯一人毛沢東のみ。他は脊髄反射だけをする「人間もどきの社会」を作り、全ての意志決定を自分に一元化することが目的であった。

面従腹背が骨の髄まで染み込んでいる国民性である。表面的にはこれに従い、沈黙の数年間を暮らした者達が多かったようであるが、当然、これに大きく影響を受け、文化の破壊に勤しむ者も多かった。「文化大革命」とは既存の文化、およびその価値の否定であり、「完全な無知がむしろ学者に勝る」というカルト思想であった。

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さて、我が国での「革命」である。
ここまで書けば、もう明らかだろう。

この半世紀、マスコミを中心に最も熱心に行われたことは、権威の否定、専門家の否定である。徹底的な素人礼賛である。学者を「専門バカ」と呼び、専門家を「蛸壺の住人」と罵り、官僚を蔑み、政治家を「権力の亡者」とまるで犯罪者の如く言い募った。

あらゆる世界に素人の意見を反映させようと試み、無学で無知で無遠慮な者が出る度に、これを支援してきた。マスコミが主導したこれらの行為は、まさに形を変えた「下放」であり、日本版の「文化大革命」そのものであった。そして、「紅衛兵」の役割を演じたのは大衆であった。

その終着点として、「政権交代」が生じたのである。専門家集団である官僚を全否定し、政治主導を大宣伝した。その主導するべき政治家には、徹底的に素人を集めた。何も出来ない人間を揃えることによって、有権者に「むしろこの先、何か出来るかもしれない」という歪んだ幻想を抱かせた。そして政府を乗っ取り、国を乗っ取った。

原発問題も同様である。上にも下にも直言する「気骨のある専門家」は要職から外され、右顧左眄を得意技とする調整型の人間ばかりが残された。今日の脅威を明日の宿題にする人間が、上位を占める組織ばかりが中央に残った。


西の都の問題も全く同様である。素人の失政に呆れた有権者は、さらなる素人を求めて彷徨っている。頭目は一人でいい、あとは「紅衛兵」で充分なのだ。周りを囲むブレインは、曰く因縁附きの落伍者ばかりである。まるで余所で大失敗をしなければ、特別顧問にはなれないのか、と思うほどのラインナップである。

彼等の目論見は唯一つ、頭目の忠実な僕となって、自分達の経歴をリフレッシュすることにある。「輝かしい経歴」に染み付いた「汚点」を洗浄したくて仕方ないのだ。

もはや視点も定まらぬ「老いたプランナー」であるとか、一度たりとも景気予想が当たったことのない「経営コンサルタント」であるとか、任期中に逃げ出した「元首長」であるとか、大言壮語だけが取り柄の「元官僚」であるとか、よくもまあ、ここまで評価不能の人間ばかりを揃えたものである。

掲げる言葉は「維新」、やはりここでも「革命」である。しかし、ここまで手垢のついた言葉を平気で使うには理由がある。それは当面のことしか考えていないからである。珍妙な政党名を名乗る集団は全て同じである。子供に怪しげな名前をつけて喜んでいるバカ親と同じ発想である。当人が成人した後のことを微塵も考えていないのだ。

彼等は自分達が真剣に「政権与党」になった時のことを考えていない。今この瞬間のブームに乗ればそれでいい、後は「発展的解消」とか何とかで誤魔化して改名でもしておけば、悪い噂も払拭出来る。そう考えて、目の前に転がっていた名前をつけたのである。「船中八策」も全く同様である。


こうして中央に地方に、「文化大革命」は絶賛進行中なのである。

素人に清廉を求める人は、その気持ちが如何にねじ曲げられて利用されているかを考えることだ。政治家は極めて高度な専門職である。何百人に一人、或いは何十人に一人、おかしな政治家が紛れこんだとしても、専門家を否定すれば、必ず「革命」が起こることを、肝に銘じるべきだ。その「革命」は、誰も望まない、ある特定の個人のためのみに行われるものである。そして、それがもし個人のものでないとしたら、明らかに外患誘致の類である。日本中から専門家を追放して、得をするのは誰かを考えるべきなのだ。

日本版「文化大革命」只今進行中

赤い官房長官と呼ばれた仙谷。
その後を襲ったのは、赤さでは負けない枝野。
我が国は完全に「革命政権」に牛耳られている。

仙谷は政権交代後、早々にこのことを宣言した。曰く

「政治の文化大革命が始まった」と。

このことを多くの人は既に忘れている。
勿論、大多数の人は当時から気にも掛けなかっただろう。

「文化」と同様に、「革命」という言葉が大安売りされている国である。文化住宅から文化鍋に至るまで、この半世紀、様々な「文化」が作られてきた。「革命」も同様である。ワンタッチで傘が開けば「革命だ」、切った爪が四散しなければ「爪切りの革命だ」、流通の革命、教育の革命、世は革命だらけである。

そんな中で、頭のおかしな政治家が、「革命が始まった」と宣しても、おかしな野郎がおかしなことを言っていたな程度の認識しか誰も持たないのである。聞き流した人が大半であったことは致し方無い。こんな連中が、「過去にどんな人生を歩んできたか」など、何の興味も持てないことは当然である。

周辺状況を考えず、およそ政治の恐ろしさには無関心な有権者達は、「何をしでかすか分からない小沢」に「何かを期待」して、「何を言っているか分からない鳩山」に「逆に深みを感じて」投票したのである。支離滅裂なことを言い続けると、何故か一定の人達が支持を表明するものだ。それはカルト集団において日常的に見られる光景である。

即ち、先の政権交代とは、小沢ヤクザと鳩山カルトに、票を投じた人達が大半であって、仙谷や枝野や札付きの連中が後に控え、その実質を奪おうと画策していることなど、民主党に投票した人間の千人に一人も考えなかっただろう。

しかし、その実体は斯くの如し。
陰湿な左翼政権そのものが出来上がった。

個人的な怨念の捌け口として、政治の世界を利用している小沢と、何を考えているか分からない、実際には何も考えていない鳩山は、そんな連中が如何に画策しようと全く興味がないのである。そして、共産党よりも社民党よりもなお赤い、異様極まる政権が誕生したのである。

得意の絶頂にあった仙谷は思わず口走った。「文化大革命が始まった」と。世界中広しといえども、今この言葉を肯定的に使うのはこの男だけであある。本家の中共ですら、ここまで手放しでは使えない。それを堂々と記者会見で宣言した。そして、自衛隊を「暴力装置」と言い放った。

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さて、ここまでが経緯である。そして、問題は現状である。

始まった「文化大革命」とやらが如何なるものか。出入りの激しい民主党政権の中で、仙谷・枝野のコンビは常に、中央に位置している。その「政府中央」の「革命思想」とやらの中身が問題なのである。フィクサーというには頭が悪すぎるが、本人がその気満々なのだから言ってしんぜよう、「フィクサー仙谷」が三代の総理を巧みに操っていると。


本家の文化大革命の本質を「何と見るか」によって、以後の議論が定まる。様々な視点が可能であろう。しかし、ここでは一点に絞って議論をしたい。その本質を「下放」と見る時、今の日本で革命が進行中であることがよく分かるのである。

確かに現在、日本版「文化大革命」が進行中である。
仙谷らはこれに便乗しようとしているのだ。

実は、これは今日や昨日始まった話ではない。半世紀以上に渡って続けれれてきた「革命の総仕上げ」に過ぎないのである。従って、我々にはもはや退路はない。この革命にトドメを刺し、完全に否定するか。完全に降伏するか、のどちらかしかないのである。

先ずは「下放」とは何か、をそれぞれ調べて頂きたい。そして今、我が国で現実に行われている「下放」とは何かを考えて頂きたい。原発の問題も、西の都の問題も、全てがこれで説明出来るはずである。

関電は全電源を落とすべし

原発問題で袋叩きにあっているのは東電だとばかり思っていたが、何と「何の関係も無い関電」まで、凄まじいバッシングを受けているのは何故だろうか。関西電力が一体どのような「失敗」をしたというのだろうか。関電にも管轄する原発があるからか。

京都大学の藤井教授らを中心に、次なる大震災、それに伴う津波に対する悲痛なる警告が続いているが、その警告を無視しているからであろうか。関西に昨年と同等の、あるいはそれ以上の地震が起こった時にどうなるか、巨大津波が来たときに発電設備はどうなるか、そのような議論が真摯に進められていないからだろうか。

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ところで、大規模災害への警告を無視しているのは、「当面の原発維持派」だろうか、「直ぐ止めろ派」だろうか。どうも我が国には「反原発派」も「脱原発派」も存在しないように見える。存在するのは、「今すぐ止めろ派」と「何が何でも止めろ派」と「何人死んでもいいから電気は無くせ派」だけのように思われる。

何しろ、「当面の苦境を乗り切り、徐々に原発を廃止して、別の発電手段に移行していくべきである」と言っただけで「原発推進派」だと罵られ、既得権益側だ、企業の犬だと言われるのである。「いずれ原発を止めようと言ったら原発推進派だ」と言われるのである。まさに現代の奇観である。

彼等は震災対応には「巨大な、そして安定した電力が必要である」ことを認めない。「僅か百年前は電気の無い暮しをしていた、その当時に戻ればいいだけだ」という。なるほど、昔はそうだった。同時に、百年前には一台のコンピュータもこの世には存在しなかった。コンピュータ制御の交通機関もなければ、車も冷蔵庫も携帯電話も無かった。埋め込み型の心臓補助装置も無かった。CTもMRIも無かった。

今はあらゆる所に、とりわけ人の目に触れない所に、人類の総人口を遙かに超える台数のコンピュータが仕込まれている。電源を落とせば、これらは全て止まる。制御機能を機械任せにしたものを逐一洗い出し、制御を人の手に戻すことは不可能である。従って、国家の総人口の何割かを犠牲にするぐらいの覚悟がなければ、「百年前云々」などという話は絶対に出来ないのだ。

しかし、しかしながら、西の都では誰が雇ったのか、何の為に雇ったのか、よく分からない「特別顧問なる連中」が、関電の幹部を面罵して得意満面である。それは、かつての「襟立て・首無し」の仕分けコンビを彷彿とさせる勢いである。

現段階で、一体関電にどんな落ち度があったというのか。
今後の電力予想値を誤魔化したというのか。
デタラメを報告して保身を計ったというのか。
自らの権益保護の為に、特別顧問様を侮辱したというのか。

およそ信じ難い態度で、関電幹部を罵り、「自分達の正義」を吠え立てているが、古賀某を筆頭に、この連中は「彼等がその否なることを身を以て立証」したら、どうなると思っているのか。どうするつもりなのか。

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関電は全電源を直ちに落とすべし。
全職員は直ちに退職すべし。
それが唯一の身の証の立てかたである。

既得権の為でもなく、保身の為でもなく、誤魔化し世を謀る為でもない。そのことを徹底的に証明するには、この方法しかない。特別顧問達は、これに対応して自らの責任を果たすべし。辞職は万人に保証された権利である。この権利を妨げる方法は、この世に存在しない。

そもそも東電は国民の敵ではない。
原子力保安院ですらそうである。

本来なら、意気消沈したスタッフを励まし、あるいは騙してでも、担当者達に仕事をさせ、責任者達に「本当の意味での責任を取らせる」のが「政治の役割」であり、有権者の期待することである。それが見せられるのは東も西も、残忍なだけの人民裁判であり、血生臭い闘牛ショーである。

日頃自衛隊を口々に罵り、「災害時には救助して当り前だ」とまで言う。普段は、自衛隊の解体に全精力を費やしていながら、自分達の乗った船が危険だと知ると、直ぐに助けにこいと「命令」する。この連中と全く同じ精神構造である。

社会のインフラの為に、日夜、まさに昼も夜もの交代勤務で、命の危険の伴う高電圧設備のメンテナンスに従事している人達のことなど、全くお構いなしに、口汚く罵り続ける連中が、元官僚であり、特別顧問であり、政治の改革者を名乗る者達なのだ。

「東電は」「関電は」と一括りに言う時、そこには殉職覚悟で暴風雨の中、電柱に昇っている名も無き人達も含まれるのだ。彼等が直接、間接に護ってきたのは、我々日本人の生命そのものなのだ。あの福島で今、この瞬間も働きづめに働いている人達もいる。辞めようと思えば辞められる。逃げようと思えば逃げられるにも関わらず、彼等は働いている。それを「当然だ」と嘯く者は嘯けばいい。

しかし一転、彼等が総辞職した時の代替案はあるのだろうな。絶対に殴り返されない状況で、相手を後ろ手に縛り上げた状況で、なぶりものにするのは、人のすることではない。特別顧問とやらのやっていることは、これである。彼等は単なる人でなしである。

普通の感覚を持った人間なら、今さら恥ずかしくて口に出来ない、手垢でベタベタの「維新」を名乗り、船に乗った訳でも、船上で発表した訳でもないのに「船中ハッサク」などとケッサクな主張をする。

自衛隊を罵倒して、全自衛官が即時退職すればどうなるのか。領土は奪われ、災害の救助は無くなり、治安維持をする人達は居なくなる。そうなっても「責任を放棄して退職するなど言語道断だ」と追加で罵るつもりなのか。その罵る口を封じるのは、もはや占領軍であり、日本人ではなくなっているだろうに。


国民は、日本が既にこのレベルにあることを知ったほうがいい。国民の中に敵を見出し、それを退治する正義のヒーローを気取る者こそ、「真の国民の敵」なのだ。本当に国を想い、想わざる者に天誅を加えるというのなら、もっと穏やかで、もっと確実で、それとは分からない方法があるものだ。

彼等こそ権力の亡者であり、かつて奪い損なった権力を、今この時とばかりに奪いにきた「昔の名前で出ています」という時代遅れの妄想家なのだ。

電力が要らないというのなら、西へ行け。
公共工事が要らないというのなら、西へ行け。

自衛隊も、警察も、官僚も、政治家も要らないというのなら、何処かに自分達の理想とする国内国家を作ればいい。今ちょうどその実験台を買って出てくれている西の都がある。国家に反旗を翻し、復旧復興の手立てですら、各種利権とごちゃ混ぜにして妨害することしかしないのなら、西の都で理想の国家を樹立すればいいだろう。

その成果を楽しみに拝見させて頂くつもりである。
中央政界に打って出る必要など何処にも無い。
自分達で国家を作れば、そこが中央ではないか!
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すべての拉致被害者の
 生存と救出を祈って…

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